J 「豊かな心。黙って治める。安心のおかげ。教団について。」
昭和五十七年六月十五日 朝の御理解
御理解 第八十一節 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十           里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩           めると、すぐに後へもどるぞ。」
 信心の道を限りなく辿らせて頂くという事は限りないおかげにつながっていく事の為であります。何年、何十年それだけの信心が出来ていくに従って、やはり一つのキャリアといいますかね、身についてくると同時に、おかげもやはりそれに伴うて限りなく伴うていかなければならんという事は、限りなくおかげが豊かになっていかなければならんという事です。
 日々おかげを頂いておりますというても、只、日々立ち行きのおかげを頂いて、堂々まわりのいうなら、おかげにとどまってはならんです。いわゆる、日勝り、月勝り年勝りと仰せられるのですから、そういうおかげを頂く為にも、その基本になるものがねこれを一つ体得しておけば、これが基本になっていよいよ豊かに大きうなっていくという。
 今度、合楽から七名の新しい教師がお許しを頂きました。やっぱり一つの驚異というですか、驚きですね。皆さんにとっては、何千ですかね教会がやっぱあります。
 だから、ま、大抵教会の子弟が、ま、学院に入りますけれども、合楽の場合はそうじゃないです。いわば教団でも必死になって叫ばれておる事は、人が育つという事だと言われております。ね、勿論、信者が沢山になるという事もそうですけれども、そうじゃないです。
 本当に自分の全身全霊を、道の発展の為に本当に投げ出される人達が育つという事が、人が育つという事の芯だと思うです。いうならば、お道の教師が育っていくという事は、教団はじまって、いうなら前代未聞じゃないでしょうか。教師が育つという事においては、ね。なら、合楽の先生は、もう、とにかく、信者の顔さえ見ればどれもこれも教師にしたいといったような願ち、いうものは全然ないです。あんた、いっちょ、お道の教師にならんかというて言うた者は一人もないです。ね、
 それでいて育っておるという事。だから、どんなに例えば、なら、合楽がいろいろと悪評の中にあるというてもです、ここに、いわゆる着眼する、例えば、合楽教会に人が育っておるという事を、もしそこに着眼をして、どこからどういうわけ、あれだけの人が育っておるのかと思うたら、本当は合楽の信心を一遍見直さなければいけんのじゃないかと思うです。
 布教部長がおっしゃったそうです。今度の、ま、全国の教会長を集めて、も、七回にわたってね、旅費なんかも全部本部もちなんです。食事から旅費から、それだけの力を入れてです、いよいよ来年百年祭を目指して頂くのに、もう、これでは金光教はだんだんつまらなくなるんだと、やっぱそうですね。まあ、明け年は百年祭ですから百年祭といったような記念の年に、もしお道の教師にでもならせて頂けるならというふうな、あれが、皆さん考えがありますから、大体は明け年が百年祭ですけん、今年は沢山多なからないかんでしょ。志願者がね。いうならば、ところが今年は七十何名ですかね。大体は百名位あるんです。なるほど、その偉い先生が言う、その教務部長さんが言われたというが、これでは金光教はもう駄目だと。
 いよいよ明百年祭を期して新たな金光教、それには今までの金光教の枠というものを取らなけれはいけないが、その、取ったあとどうすりゃ育つか、育てるかという事についてはわからないと。
これではいけん、これではいけんというところまではわかったんです。そんなら、なら、本当に人が育っておるというそのところはどこに、その、育っておる元があるかというような事が、ま、教団全体、ま、指導される方達が気がつかなきゃいけんのじゃないかと、私は思うんですけどね。
 丁度、今度の研修には九日十日十一日、三日間、私が行けませんから若先生が替わりに参りましたが、丁度教師拝命が十日の日にありまして、それで、合楽教会、00合楽教会、00が七名もずらっとこうして、皆がですね、合楽教会というところはどういう所だろうとね、あっ、あなたが合楽の若先生ですか。もう大変な御比礼だそうですねと、沢山な先生方が次々と出来ておられるという事を、ま、挨拶のようにして受けたというておりましたが、ね。
 どうして、いうならば、合楽で人が育っておるかと、私は、今日の御理解を頂いて確かに、十里の坂を登ったらと、こう、私はこれはね、とにかく教えをいよいよ自分の物にするという事、ね。一家中でもよい、それを本当に自分の血に肉にするという事。まあ、漠然と合楽理念のマスタ-が出来たじゃなくて、その中に芯になるものをいよいよ自分の物にする。油断をすると、いうならば、そげん思うとるけれども、又失敗しましたという事になるわけです。だから、それが、血に肉になっていないからです。まあだ、八里か九里しか登っていないのです。
 私、今日は教えを身につけるという事において、それを完璧に自分の物にするというところに、それで安心じゃという教えの徹底を、今日は皆さんに聞いて頂きたいと思うんです。
 八十一節という事から感じるんですけれども、もう、とにかく本当にね、広がりに広がるおかげの第一歩なんですこれは八十一はね。本当に教えなら教えを、これだけは完璧に私の物になったね。それがいよいよ洗練されて、大きくなっていく、偉大になっていく。おかげも偉大になっていかんはずはないという事になります。
 昨日の御理解でしたかね、結局、人情では助からん、人情では本当の助かりにはならん、人力に見切りをつけて神力にすがれ人力自ずから湧いてくる。
 も、人力自ずから湧いてくるようなところまで一つお互い信心を高めていきたいね とにかく、信心は地を肥やせね、地を肥やしていればひとりでに物が出来るようなものだと。合楽の現在のおかげというものは、人が育つという事。ね、いうならば、本当にひとりでに育っていっておるという様子を見た時に、やはり地がだんだん肥えて来たからだと思う。
 私はこれで、満足はしません。勿論、も、限りなく育っていかなきゃならんと思うからね。そこで、なら、合楽でね、いよいよ、なら、黙って治めるというこの一言だけでもです、この位な事は言うてもよかろう、もう、言わんと決めておりましたばってん失敗しました。これでは、いつまでたっても土台がでけんです。それだけは、もう、あなたの物になってしまわなきゃ駄目です。血肉にてならな駄目です。もう、しかもね、言わんですむ事が有り難いという事は、自分自身の心が豊かになるから言わんですむのです。豊かになりたい、大きくなりたい、大きなおかげを頂きたい、豊かなおかげを頂きたいならば、先ず、自分自身の心がいよいよ豊かになる事を願わなきゃいけません。
 それに私はね、も、とにかく、辛抱でけんところを辛抱する事によって、それが豊かになる心の手立てであるとするならば、どうでも辛抱しぬかないかんね。その、辛抱しぬいていくうちに実証が生まれてくる。はあ、なるほど、このようにして豊かに心がおかげ頂くんだなあという事がわかってしもうた時が、向こうへ降りた時なんだ そこにはもう、さらさら言う事はいらんのです。黙って治まっていくのです。自分も助かりゃ人も助かっていくのです。もう、こげん、そして楽な事はないです、ね。 皆さんも、黙って治めるという事は皆が言われます、合楽の人達は。だから、それがね、いうなら、辛抱せんでもよいように血に肉になってしまうという事です、ね。 これが、限り無く大きな豊かなおかげを頂く為にはどうでもここの信心を、ね。それこそ泣くほど辛い事もあるかも知れません。もう、言わにゃたまらんという事もるかも知れません、ね。けれども、それを辛抱していくうちに言わんですむ、その言わんですむ事がこんなに有り難い事だという事が、しかもこれは、限りが無い事ですから、限り無きいうならば、繁栄という事にもつながりましょうね。
 私は今日、皆さんにね、折角黙って治めると言うておるのだからね、それを八分目九分目で辛抱でけんで言うてしまうんじゃったらいつまでたっても、七分目八分目でグルグルしとかなん。それじゃおかげの元にならんです、ね。それが自分の血に肉になった時にそこから広がりに広がっていくというおかげ、ね、私は今日はね、教えを例えば、本気で行じるという事ね、それを、なら、中途半端で行じ切れなかったとするならば、ね、いつまでたっても向こうへ降りたら安心じゃという、安心になってこないという事です。この徹底ですね。しかも、それを限り無く育てて豊かに大きくしていくという事です。だから、おかげも又、豊かに大きくなっていく、何十年信心が続いておりますと言うただけでは駄目です。その日その日のおかげは受けておりますだけじゃいかんです。その日のいうならば、例えその日暮らしでも千円のその日暮らしから一万円のその日暮らしが出来るように、十万円のその日暮らしが出来るようにね、大きくなっていかなきゃいけない。
 その第一歩は、先ず、教えが完全に自分の血に肉になるという事だ。それが、おかげ頂く。いうならば、広がるおかげの第一歩だ、八十一節だというふうに今日は聞いて頂きました。
   どうぞ。